「グラスゴーの労働者階級に生まれた人間が成功するには、ミュージシャンかサッカー選手になるほかはない」
 1953年10月10日、グラスゴー郊外で生まれたジェイムズ・ユーロは早くからそう悟っていた。そして、サッカー選手になるには身長が足らないことも自覚していた。
 残る道はミュージシャンしかない。
 16歳になると、彼はエンジニアリング関係の仕事に就きながらさっそく最初のバンドを結成する。ジョン・メイオールの曲名からとった“スタンブル”。ユーロはこのバンドを率いてグラスゴーのあちこちのクラブで演奏するようになる。1969年のことだ。
 翌年、彼は新たなバンドを結成。ジム・マッギンリー、ケヴィン・マッギンリー兄弟と組んだ新バンドの名前はサルヴェイションといい、メンバー・チェンジを重ねながらこのバンドは3年近く続くことになる。この頃の主なレパートリーはニール・ヤングなど内外のロック・バンドのカヴァー・ソングで、主な演奏場所はやはりグラスゴー近辺のクラブやパブなどだった。
 このサルヴェイション在籍中に、彼はミッジというニック・ネームで呼ばれることが多くなる。由来は単純で、本名の略“JIM”をひっくりかえして“MIJ”、それが変じて“MIDGE”となった。また、このバンドの後期には、ケニー・ヒスロップ(ドラム)、ビリー・マクラサク(ギター)も加入し、兄弟のうち残っていたジム(ベース)とともに、74年にはそのまま新たなバンド“スリック”へと変身していくことになる。

 これまでのバンドにくらべて、スリックのスタートは順調だった。バンド結成後まもなく、売れっ子のプロデューサー・チーム、ビル・マーティンとフィル・コーターが彼らに注目したのだ。マーティンとコーターの推薦で、ポリドール・レコードもスリックとの契約を決定する。
 1974年10月、スリックはシングル「THE BOOGIEST BAND IN TOWN」でデビューを果たした。プロデュース、作曲はA、B面(「HATCHET」)ともマーティンとコーターのコンビによるもので、テン・イヤーズ・アフターやスレイドなどのサウンドをポップにわかりやすくしたもの。ハードなギターこそ入っているものの、ターゲットは10代前半の子供向けで、音楽的におもしろいものではない。
 このシングルは一説によると本国イギリスでは数百枚しか売れなかったそうで、セールス的に失敗に終わった(なぜかアメリカではビルボードの100位近くまで上がる小ヒットとなっている)。このため、ポリドールとの契約はシングル1枚のワン・ショットで終了することになり、スリックは以降、マーティンとコーターに引きとられるような形となる。
 75年、スリックは失意のままバンドを続けていたが、この年、ユーロはグラスゴーを訪れたある人物からひとつのオファーを受けていている。話にどこまで具体性があるのか不明だったし、スリックを脱退する気もなかったのでユーロは一考した上で断ったのだが、それが彼にとってプラスとなった判断だったのかどうかはいまとなってはわからない。
 そのオファーは、マルコム・マクラレンという人物からのもので、ユーロに、現在計画中の新しいバンドのギタリストにならないかというものだった。バンドの名はセックス・ピストルズといった。

 ともあれ、ユーロはスリックの一員としてとどまった。それを受けてマーティンとコーターは改めてスリックのプロモーションを考え、まずバンドのイメージを刷新することから始めた。それまでのハード・ロック・バンド的なむさくるしいファッションと長髪をやめさせ、スリックの面々をアイドル然としたポップなルックスに変身させた。また、音楽面でも典型的なバブルガム・ポップの曲を与え、マーティンとコーターがプロデュースして成功し始めていたベイ・シティ・ローラーズの路線を踏襲させる。
 変身したスリックは、音楽映画のサントラに曲を提供した後、まず試験的にドイツのベラフォン・レコードからシングル「THE GATEWAY/AGAIN MY LOVE」をリリースし、75年12月には英国でもベル・レコードと契約してシングル「FOREVER AND EVER/AGAIN MY LOVE」で再デビューを果たす。「FOREVER AND EVER」は当時としては珍しくプロモーション・ヴィデオも製作されるなど、レコード会社のプロモーションも熱心で、年が明けた76年1月、ついに英国のチャートで1位に輝くことになる。その勢いをかってスリックは2月に初めてのロンドン公演を行い、4月にはニュー・シングル「REQUIEM/EVERYDAY ANYWAY」も発表。さらに間を置かず5月にはアルバム『SLIK』をリリースしている。
 アルバムには、ユーロの初めての自作曲も収録された。「DO IT AGAIN」がそれだが、ボウイの「STARMAN」から拝借したギター・フレーズこそ耳に残るものの、これといって特徴のある曲ではない。

SLIK UK LP

DANCERAMA / DARLIN / BOM-BOM / BETTER THAN I DO / FOREVER AND EVER / REQUIEM / DO IT AGAIN / WHEN WILL I BE LOVED / DAY BY DAY / NO WE WON'T FORGET YOU

SLIK US LP

DON'T TAKE YOUR LOVE AWAY / DARLIN / BOM-BOM / BETTER THAN I DO / FOREVER AND EVER / REQUIEM / DO IT GAIN / WHEN WILL I BE LOVED / THE KID'S A PUNK / DANCERAMA

 アルバム発表後の6月、スリックは初の全国ツアーに出発する。英国各地を20か所以上回る本格的なツアーで、バンドが行くところは多くの歓声に包まれる。ユーロらは初めて体験する“スター生活”を楽しむが、スリックの成功もここまでだった。
 スリックは売れたといっても、あくまでマーティンとコーターという人気プロデューサー・チームの道具として第二のベイ・シティ・ローラーズ以上の役割を与えられることがなかった。このままアイドルとして音楽をやっていっても先はない。メンバーの誰もがそう感じていたし、なによりこの頃、ロンドンで燃え盛っていたパンクの炎がユーロらに刺激と焦燥感を与えていた。
 そんなとき、マーティンとコーターから次のシングル曲が渡される。題して「THE KID'S A PUNK」。パンク・ムーヴメントの表層だけをすくいとった、これまでと変わらないバブルガム・ポップだ。こんなものを歌っている場合ではない。スリックの焦燥感はますます深まっていった。
 76年7月、問題のシングル「THE KID'S A PUNK」が発売されるが、そのコンセプトのあまりのお手軽さはリスナーの蔑視を招く。このシングルはチャートにかすりもせず、スリックの成功は終わっていた。ただし、このシングルのB面にはユーロの自作曲「SLIK SHUFFLE」が収録されている。ユーロがカリプソに挑戦したこの曲は、その後も含めた彼の作品歴の中で数少ないブラック・ミュージックに接近した曲として多少、目を惹く。

 この後スリックは、76年12月にシングル「DON'T TAKE YOUR LOVE AWAY/THIS SIDE UP」、ドイツで「DANCERAMA/I WANNA BE LOVEED」(77年)、「IT'S ONLY A MATTER OF TIME/NO STAR」とすでに録音済みの曲をシングルとしてリリースし、77年初頭には小規模な英国ツアーも行うが、次第にその存在をフェイド・アウトさせていくことになる。

FOREVER AND EVER
REQUIEM
THE KID'S A PUNK
DON'T TAKE YOUR LOVE AWAY
DANCERAMA(SINGLE VER.)
IT'S ONLY A MATTER OF TIME
BOOGIEST BAND IN TOWN
THE GATEWAY
HATCHET
AGAIN MY LOVE
EVERYDAY ANYWAY
SLIK SHUFFLE
THIS SIDE UP
NO STAR
I WANNA BE LOVED
AGAIN MY LOVE(EARY VER.)
BOM-BOM
WHEN WILL I BE LOVED
DO IT AGAIN
BETTER THAN I DO
DAY BY DAY
NO WE WON'T FORGET YOU
THE BEST OF SLIK
(UK CD 1999)

 77年、ユーロらスリックのメンバーはグラスゴーで一年を過ごす。すでにスリックとしてのレコード契約も切れ、先の見通しは立たなかったが、それでもバンドには活気があふれていた。その活気の源はパンク・ムーヴメントから受けた刺激だ。
 彼らは終日リハーサルを続け、この新しい音楽の潮流に身を投じる準備をしていた。
 やがて、彼らはグラスゴーのクラブでまた演奏を始める。さすがにアイドルというイメージにまみれたスリックの名前は出せなかった。スリックと同じメンバーのままPVC 2という変名を用いてのギグを重ねていったが、パンク・ムーヴメントの勃興は英国各地に先進的なインディー・レーベルを生み、ここグラスゴーでも例外ではなかった。
 グラスゴーを含むスコットランドで初のインディー・レーベル“ZOOM”が誕生し、PVC 2はこのレーベルの第二弾シングルとして「PUT YOU IN THE PICTURE/PAIN/DERANGED DEMENTED AND FREE」をリリースすることになる。
 3曲入りのこのシングルのうち、タイトル曲の「PUT YOU IN THE PICTURE」(後にリッチ・キッズで再録音)がユーロの作、他の2曲はそれぞれヒスロップとマカラサックの作曲によるもので、どの曲も典型的な3コードのパンク。スリック時代が嘘のような荒々しい演奏で、彼らはこの3曲をダビングもせずに一発録りでライヴ・レコーディングしている。
 77年11月にシングル「PUT YOU IN THE PICTURE」がリリースされることが決定し、ユーロはそれを皮切りにPVC 2の活動を本格化させるつもりだった。が、ちょうどその準備を進めていた夏頃、彼のもとにかかってきた1本の電話がユーロとPVC 2の運命を大きく変えることになる。