ヴィサージのフロント・マン、スティーヴ・ストレンジ(本名=スティーヴ・ハリントン)は1959年5月28日、ウェールズに生まれた。高校卒業後、友人のビリー・アイドル(後にジェネレーションX)に誘われてロンドンに移る。
 ロンドンではビリー・アイドルと共に、セックス・ピストルズやスージー・アンド・ザ・バンシーズの周辺に出入りしながら、それらのバンドのポスターのアート・ワークなどを手がけていたらしい(といっても、主な収入源は失業手当だったようだが)。
 パンク・ムーブメントのさなかにいたストレンジの興味は、やはり音楽、バンドに向いていく。77、78年頃、ストレンジはクラブで知り合ったクリッシー・ハインド(ザ・プリテンダーズ)の協力を得て、ムーアズ・マーダーズというバンドを結成。その他のメンバーは不明だが、何回かのギグを行い、デモ・レコーディングも行ったようだ。そのときに録音された曲は「Free Myra Hindley」と「The 10 Commandments」という曲で、一説によるとこの2曲はポップコーンというインディー・レーベルからシングルとして発売されたという(たぶん誤報)。
 しかし、このバンドは長続きせずに解散。ストレンジは次に、フォトンズというバンドを結成する。このバンドの活動内容は一切不明だが、メンバーには後にサイケデリック・ファーズに加わったドラマーもいたらしい。
 そして、どうやらこの頃からストレンジはクラブDJ、パーティーのオーガナイザーとしての活動をスタートさせる。
 78年後半、フォトンズはやはり短命に終わったが、DJとしての活動は順調だった。この頃にコンビを組み始めたのが、リッチ・キッズに在籍していたラスティー・イーガンである。ふたりはソーホーにあったビリーズというクラブの木曜日のパーティーをオーガナイズし、そこでロキシー・ミュージックやデヴィッド・ボウイなどをフィーチュアした選曲で人気を集めていくことになる。この頃、「ボウイ・ナイト」と銘打ったパーティーにはボウイ本人も訪れ、その縁で後にストレンジはボウイのプロモーション・ヴィデオ「アシェズ・トゥ・アシェズ」への出演も果たす。
 そうしたDJ活動を続けるうち、ストレンジとイーガンは、コンピューターやシンセサイザーを使った音楽に新しいダンス・ミュージックの可能性を感じとっていくことになった。クラフトワークはもとより、ウルトラヴォックスやゲイリー・ニューマンといったエレクトロニク・ポップの先達、ヒューマン・リーグやザ・ノーマルら彼らと同世代の新しいバンドがふたりのセット・リストに次々に登場してくることとなった。発売されたばかりのYMOの曲をロンドンで初めてクラブで使用したのもこのふたりが最初だそうだ。
 それら新しいエレクトロニク・ポップのアーティストと、ビリーズに集まる着飾ったオーディエンス(そういった中には後にデュラン・デュランやカルチャー・クラブを結成するミュージシャンの卵が大勢いた)は、メディアから「フューチャリスト」と呼ばれ、次第にポスト・パンク、ニュー・ウェイヴのひとつの勢力となっていく。
 ビリーズが手狭になったため、場所をコヴェント・ガーデンのクラブ、ブリッツに移したストレンジらのパーティーは、さらに人気を博す。オーディエンスはグラム・ファッションをシックに、かつゴージャスにした中世的な衣装やメイクで身を飾り、フューチャリストたちはやがてニュー・ロマンティックスと名を変えて呼ばれるようになった。
 ストレンジとイーガンは、この頃には他のアーティストの曲をかけるだけでなく、自分たちでもニュー・ロマンティックス・ムーヴメントに即した音楽をクリエイトしたいという思いが強くなる。イーガンは、彼ともにリッチ・キッズに在籍していたミッジ・ユーロを呼び、この3人でデモ・レコーディングが始められることになる。78年の後半である。このときに録音された曲は「Eve Of Destruction」という曲に、ゼーガー&エヴァンスのカヴァー「In the year 2525」、それと「The Dancer」の初期ヴァージョン。この中で「In the year 2525」だけが後に陽の目を見ることになるが、後述。
 これら3曲はレコード契約にこそ至らなかったものの、テープをブリッツでかけたところ確かな手応えを得ることが出来た。気をよくした3人は、このプロジェクト――ヴィサージと命名された――をより本格的なものとすることを決意する。それを機にミッジ・ユーロはかねてから気になっていたバンドのメンバーをサポートとして呼ぶことを提案した。まず、キーボードにウルトラヴォックスのビリー・カーリーと、マガジンのデイヴ・フォーミュラ。ベースに同じくマガジンのバリー・アダムソン。ギターにスージー&ザ・バンシーズのジョン・マクガフ。そしてコンピューター・プログラマーとして、ケイト・ブッシュなどのレコーディングに参加していたリチャード・バージェス(後にランドスケイプに参加)が集められた。これらに加え、ストレンジがヴォーカル、イーガンがドラム、ユーロがギターとキーボードを担当し、ここにヴィサージが誕生した。

 

TAR / FREQUENCY 7
UK GENETIC
TAR / FREQUENCY 7
FRENCH GENETIC
 79年の中頃、誕生したばかりのヴィサージは、ロンドンのRAKスタジオでレコーディングを開始する。まず録音されたのは「TAR」と「FREQUENCY 7」だ。この2曲はシングルのA、B面としてインディー・レーベルのジェネティックから発売されることがすでに決まったいた。
「TAR」は典型的なエレクトロニク・ポップ・ソングで、歌詞は煙草のパッケージに印刷されている警告文(喫煙はあなたの健康を害しますうんぬん…)そのままのようなもの。この曲に代表されるよう、当初、ヴィサージの曲の歌詞はナンセンスで無意味なものが多かった。ストレンジらにしてみれば、ヴィサージはあくまでも、クラブ・ユースのダンス・ミュージックのためのユニット(ライヴもやらない)であり、クラブで踊っている人間がどうせ歌詞に注意を払うわけがないという前提で作られていた。歌詞はそれらしいものがあればそれでいいのであり、ヴィサージの音楽で重要なのはあくまでリズムとメロディーだという意識が強かったようだ。
 シングルのB面に収録予定の「FREQUENCY 7」はずいぶんと実験的な曲だ。強迫的なリズムの反復に、シンセ・ノイズ、そしてストレンジのラップが乗るという構成で、これといって特徴のないA面の「TAR」にくらべて遥かに時代の先を行っている。シャガー・ヒル・ギャングの「RAPPER'S DELIGHT」とほぼ同時期にすでにラップを取り入れているなど、この時点でヴィサージの先進性を示しているのは、むしろこの「FREQUENCY 7」のほうだろう。

 録音からほどなくして、シングル「TAR」はイギリスのみならず、ドイツ、フランス、オランダなどで発売される。インディーからのシングルで、ろくにプロモーションもしなかったため、チャート・アクション的には惨敗だったが、ヴィサージは気にしなかった。彼らにとっては「TAR」のシングルはあくまで小手調べで、目標はメジャー・レーベルとのアルバム契約だったからだ。
 それよりも問題なのは、ヴィサージの音楽面での中心人物であるミッジ・ユーロの動向だった。「TAR」のレコーディング中に、ユーロとビリー・カーリーが親交を深めて、いつのまにかユーロのウルトラヴォックス加入が決まってしまっていたのだ。実はユーロはカーリーを呼んだときから、ジョン・フォックスの脱退によって活動停止中だったウルトラヴォックスへの加入を念頭に置いていたフシがある。
 ともあれ、ユーロのウルトラヴォックスへの加入によって、ヴィサージの活動はしばし停滞することになる。ユーロを迎えたウルトラヴォックスが、アメリカ・ツアーとその後のアルバム・レコーディングに入ってしまったためだ。しかし結果的には、この半年以上に渡る活動休止期間がヴィサージにとって吉となる。この間にイギリスでは、あくまでンダーグラウンドだったニュー・ロマンティック・ムーヴメントが急速にオーヴァーグラウンドに浮上していくのだ。当のユーロ加入のウルトラヴォックスのブレイクが皮切りとなったような形で、アダム・アンド・ジ・アンツやデュラン・デュラン、スパンダー・バレエ、オーケストラル・マヌーヴァーズ・イン・ザ・ダークといったバンドが脚光をあび、それらムーヴメントの中心的存在としてヴィサージにも注目が集まるようになる。そうした、いわば満を持したような時期にヴィサージのアルバム『VISAGE』が発売される事になる。
 アルバム『VISAGE』は79年から断続的に作業が続いていたが、本格的なレコーディング作業が始まったのはユーロとカーリーのウルトラヴォックス組に多少の時間の余裕ができた80年夏頃からだった。それに先だって、5月にはメジャーのポリドールとのアルバム契約もかわされている。
 シングルとして録音されていた「TAR」はそのままアルバムへの収録も決まり、78年にデモが作られていた「THE DANCER」のレコーディングも決まる。その他、アルバムのタイトル曲となる「VISAGE」、「恋愛問題の終わりを歌ったエモーショナルな曲」とストレンジが語る「MIND OF A TOY」、クリント・イーストウッドへの賛歌(あいかわらず歌詞には重きが置かれていない!)「MALPASO MAN」、リチャード・バージェスによるシンセSEがフィーチュアされた「BLOCKS ON BLOCKS」など新曲が次々に完成していく。日本のYMOの「ライディーン」「テクノポリス」の影響を直截に受けた「MOON OVER MOSCOW」などという曲もある。しかし、ヴィサージのファースト・アルバムの中で、いちばん重要な曲となったのは「FADE TO GREY」だった。
「FADE TO GREY」はもともと、ビリー・カーリーがゲイリー・ニューマンのツアー・バンドにいた79年、やはりニューマンのサポートをしていたクリス・ペイン、セドリック・シャープリーと作った曲が原型となっている。これをミッジ・ユーロがミドル・テンポの美しいバラードに仕上げ、その完成度からアルバムの先行シングルとしても選定される。


UK 7" 12" FRENCH 7" JAPAN 7" SPAIN 7"

 シングル「FADE TO GREY」は、80年12月、アルバム収録曲の「THE STEPS」をカップリングして発売された(フランス盤は「MOON OVER MOSCOW」がB面)。発売が先述のようにニュー・ロマンティック・ムーヴメントの渦中であったこと、さらに「FADE TO GREY」の曲調がクリスマス・シーズンにぴったりだったことで、シングルは全英チャートの8位まで上がるスマッシュ・ヒットとなった(同じ理由で、ウルトラヴォックスのシングル「VIENNA」もこの時期2位まで上がっている)。
 大成功となったメジャー・デビューだが、シングル「FADE TO GREY」の発売に関してはヴィサージはさすがクラブ・ミュージック指向の強いプロジェクトだけあって、同時発売の12インチ・シングルには同曲のダンス・ミックスが収録されている。「FADE TO GREY」でのダンス・ミックスは、リズムを心持ち強調し、DJが曲をつなぎやすいようにインスト部分を増やしているだけという、いまとなってはシンプルなリ・アレンジにすぎない。が、それでも単なる気まぐれや思いつきでなく、自覚的にクラブ、ディスコのDJに向けたダンス・ミックスを制作していくというヴィサージの方法論はポップ・ミュージックのバンドがクラブ、ディスコ・ミュージックの方法論を取り込むのが当たり前になっていく80年代の音楽傾向を先取りしたものとして評価すべきだろう。
 ともあれ「FADE TO GREY」は成功し、この曲はリリースされると同時にヴィサージの、そしてニュー・ロマンティック・ムーヴメントの代表曲となった。